夏の日の思いで2

 

第5話  誘惑

村を見下ろす山の中腹に孝次の自宅である寺はあった。

寺の本堂と住居はちょっと離れているが、取りあえずは境内の中だ。

窓の外では植木やら何やらで、蝉が今を盛りに鳴いている。

孝次は無言のまま、自室の机に向かっていた。

口をきゅっと一文字に結び、じっと一点を静止したまま動かない。

厳格な家庭で育った孝次はとにかく曲がったことが大嫌いな性格で、

これまでに何度も力丸とは衝突しているのは、前にも述べた通りである。

そんな自分の頑なさのせいで、時には力丸だけでなく、クラスの大半と

反目したこともある。

そういえば、それが原因でボーイスカウトだって・・・・・・・いや、

その話はもうよしにしよう、あそこでは嫌なことが多すぎた。

それが間違っているとは思いたくなかった。

自分はただ、両親や教師の教えを虚心坦懐に聞き入れ、そしてそれを

果たしてきただけなのだから。

でも、自分は間違っているのだろうか?

大人が言うことはみんな正しくて・・・・・・・・。

本当はみんなと一緒にいたいし遊びたいこともある、教室で・・・・いや、

それ以外の場所でも笑ったことなんてここ暫くずっとなかったけど。

さすがに今どき、肉や魚などの動物性蛋白質を一切摂らない完全なベジタリアンに

徹しているわけではないが、それでも孝次の体格は、とても平成生まれとは思えない

ほどに華奢で目立つ。

それは純のように、塾帰りで空腹に耐え切れない時はとりあえず駅前のファースト

フード店で間食をすることもあるライフスタイルからくるようなものではなく、

終戦直後の地方の農村の子供のような性質のものだった。

試合、というか決闘は翌日。

孝次にとってはボクシングなどというものはあくまでも手段にすぎない。

それよりも肝心なのは、学校の規律を自分勝手な都合でねじ曲げようとする

力丸とその一味をギャフンと言わせることだ。

そう再確認すると、孝次は息苦しさと全身を灼くようなジリジリとしたものを感じて

いた。

4畳半の和室のせいでも、カーテン越しの強烈な西日のせいでもない、理由は

孝次にも分からなかったが、取りあえずこのままこうしてここにいることが

心身共に苦痛と感じているのは確かだった。

そう思うと孝次はスックと座ぶとんから立ち上がると、半ば逃げ出すように

部屋を後にした。

扇風機でささやかな涼を感じるのも限界だろう。

部屋の襖を開けると、一気に新鮮な空気が肺に届いたような気がした。

何も気密性などありはしない部屋なのに、日の当たらない廊下のひんやりとした

空気は随分と酸素が濃いような気がするのだ。

あてもなく孝次はふらふらと玄関に続く方向に歩き出した。

何かしなければいけない。

そういう焦燥感だけはあるものの、具体的に何をしていいかが全く分からない。

漠然としているだけにタチが悪いな、そう感じた。

さっきから腹の底でモヤモヤとした異物が気になっている。

気体にしては重く、固体や液体にしては吐き出せない正体不明の異物。

と、風呂場の脱衣場の前で足を止めた。

そういえば、久しく自分の姿を鏡に映して観察した記憶が残っていない。

思春期ならいざ知らず、今の恰好でさえ、ジーンズの半ズボンに白いランニングシャ

ツ一枚、

という質素なもので、所謂おしゃれなどというものは子供には過ぎたものという認識

があったせいだろう。

ほんのちょっとだけ、今の自分を見てみようと孝次は思い立ち、そっとガラスの引き

戸を開けてから、撥水ビニール床の脱衣所へ。

鏡に映った孝次は、その表情から自分がひどく緊張していることに改めて気付く。

簡単にいうと、どこかの味噌のテレビCMにも出られそうな髪型と顔だちだが、

その目は見るからに意志が強く、そして実直であることは誰もが認めるところだろう。

それにしても、やっぱり正直、力で誰かに立ち向かおうというには自信が持てない

体格である。

格闘技なんか、父もやっている剣道ぐらいなもんだし、運動といっても、お年玉を

除けば唯一の収入源である毎朝の新聞配達ぐらいなものだ。

ちなみにその新聞配達にしたところで、その収入のほとんどは郵便局の貯金に

回してしまうわけだが。

ランニングシャツの襟首からは鎖骨の突起が目立ち、前身頃の胸の部分はブカブカ。

割り箸のような手足は、長いものの関節だけ太い。

しかし孝次は思いきってそのシャツを脱衣篭に畳んで入れると、もう一度上半身を

露にして臨んだ。

肋が浮き出て木琴のようなことになり、腹もこの年代にはまだ残っているような

柔らかさは、もはやなかった。

幸い、菜食中心なので肌の色つやは良かったものの、持久力を求められるような

ことはどうにも向いているようには見えない。

「・・・・・・・・・」

孝次は無言でファイティングポーズを取ると、目を閉じて空想してみるのだった。

場内満員の武道館。

天井からの色とりどりの強烈な照明と、観客席からの割れんばかりの自分への

賞賛の声。

今、試合を終えて荒い息遣いの自分は、リングサイドから飛び出してくる、所属ジム

のコーチや付き人たちに囲まれて、口々に何かを言われている。

そう、自分は防衛戦に勝ち抜いたばかりなのだ。

両手を大きく頭上で振っていたレフェリーがグッと力強く、孝次の手首を

掴んで高々と持ち上げる。

そこでまた、ワーッと声援が起こる。

一斉に焚き付けられるマスコミ陣のカメラフラッシュ、そして『再び』自分の

腰に巻かれる黄金のチャンピオンベルト。

履いたことなど一度もないのだが、リングシューズがちょっとだけ窮屈に

感じている。

体一面に霧吹で吹き付けたような汗粒が滲む中、相手コーナーに目をやると、

哀れKO負けを喫した純が白目を剥いて、ドクターの指示で担荷に乗せられるのが

見えた。

悔しそうな力丸たちの表情。

ざまあ見ろ、こっちはみんなの決まりを守り抜こうとリングに立った、

正義の味方が負けることなんか絶対にあるもんか。

ゾクゾクとした優越感と、それから運動では得られないような、マグマのように

熱い興奮が全身を支配するのが何とも気持ちよかった。

こんな感情は生まれて初めてのものだろう。

笑顔のリポーターたちが次々とマイクを突き付けてくるのに必死に答える。

空想の中だから、音声はザワザワしたものにすぎないのだが、とりあえず

現実のタイトルマッチで行われているであろうやりとりがなされていることにしてお

く。

 

ふっと現実に戻る。

本当にこうだったらいいのに、と孝次は思った。

それから慌ててランニングシャツをもう一度着ると、それからしばらくそこらを

散歩することにした。

とにかく、じっとしていると気が変になりそうだったからだ。

玄関から山門を出て、通学路に続く道を歩く。

しばらくすると、自転車で鉄丸とすれ違った。

その時鉄丸が、自分が孝次であるかどうか確認するような視線を投げかけ、

そうと分かるとニヤリとしてそのまま通り過ぎたのが腑に落ちなかったが、

今はそんなことすらどうでも良かった。

心の迷いを振り切る、などという立派なものではなく、ただ単に目の前の

不安から逃避したいだけだった。

しかし、そうするにも許された時間は、夕食の時間まで。

最低でもそれまでにはきちんといつものように自室にいなければならない。

これは生まれた時からずっと守っているルールだからだ。

それがもどかしく感じることや、さっくの幼稚な空想に興じてしまった

自分を戒める。

そもそも、気に入らない相手を暴力でねじ伏せること自体、自分としては

本意ではないはずだったのに・・・・・・・・。

別にそれが堅苦しいとなんか思わない、だってそれが本来正しいに決まって

いるのだから。

苦痛と感じるとしたら、それはきっと自分の人格に問題があるから。

そんなことを考えつつ帰宅したところで、丁度夕食の時間を告げられた。

 

麦飯に大根の入り葉、味噌汁に漬け物、そして夏らしく冷ややっこという

簡単な食事と入浴を済ませて部屋に戻る。

勉強のための和机はブックエンドで挟んだノートと教科書がきっちりと

整理整頓され、既に夏休みの友は完全に終わらせてある。

無遅刻無欠席。

明日の時間割と宿題を既に済ませたランドセルと、畳んだ制服、

ポケット用のハンカチとティッシュ。

部屋の本棚には漫画本はなく、偉人伝とか参考書、問題集などが

並べられ、扇風機以外の電気製品は何一つ置いていない。

布団を押し入れにしまえば、他には何もない殺風景な部屋だ。

食べてすぐ横になるのは、とも思ったが、もうすぐ9時だから寝る時間だろう。

と、窓の横に雑誌が無造作に落ちているのを見つけて、急いで本棚にしまおうと

手に取った。

その瞬間、孝次は呼吸を止めてしまった。

見なれないその雑誌は、何故か自分が買った覚えのない、いや、買えるはずのない

もので、孝次には些か刺激が強すぎた。

見ちゃ駄目だ。

どうして、という疑問よりも先に孝次の理性がそう叫んで、思わずそれを

壁に投げ付けた。

それからやっと、しばらくして気をとりなおすと、もう一度それに手を伸ばした。

 

読んじゃえよ。

 

誰かが自分の中でそうニヤついた。

駄目、それだけは・・・・・・。

雑誌の中身を想像するだけでも孝次の幼い体は紅く火照り、そして強ばった。

それが客観的に見て、ひどく低俗で恥ずかしいと思うと、更に泥沼に

はまって足首が両方とも抜けなくなってしまったようだ。

扇風機の風だけでは到底暑さが我慢できなくなり、孝次はパジャマの上を

脱いで畳んだ。

「はぁ・・・・・・・・」

大きくため息をついて、そのまがまがしい物をどう処分したものか、真剣に

悩んでみる。

両親のいずれかに見つかりでもしたら、それこそどんな叱責を受けるか

知れない。

それだけは避けたい、そんな恐ろしいことになりでもしたら、自分はどんな

扱いをこの先で受けるか、そう考えている時に

 

本当は見たいんだろ、カッコつけるなよ

 

という追い討ち。

だけど、それに従ってしまうとそれこそ自分は汚れた存在になってしまうことだろう。

しばらくの沈黙。

強い葛藤で、もはや明日の試合のことなんかよりも、持て余したこの本をどう

処理していいのか、思考がもつれていく・・・・・・。

しかし突如、孝次は思いきって禁断のページをめくってしまう。

 

ビクン、とつま先が軽く反応した。

条件反射なのかどうかは分からない。

自分が今何をしているのか、全く分からない状態。

まるで自分がまだ母親の胎内にいたときの事をまだ覚えていたかのような

安堵感、しかし確かに自分は興奮しているのに・・・・・・。

余りの暑さからか、孝次はズボンも足下に脱ぎ捨ててしまい、ランニングシャツと、

白い無地のブリーフだけの状態である。

未だかつて体験したこともないような、不思議で激しい衝動が孝次を襲う。

もうそこにはいつもの理性的な孝次の姿はなかった。

持て余した孝次の手が、誰に命じられるでもなく、ゆっくりと伸びる。

何故だかこんな悪習に興じてみたくなった。

こういった本がこんな魔力を持っているだなんて・・・・・・・・・。

芯からズキズキと疼くのは良心のせいからか、それとも・・・・・。

まるで100メートルダッシュでもしているかのような息遣い、両親に

バレないようにと奥歯をグッと噛み締めて声を押し殺す。

本当は大騒ぎでもしたいぐらいの気持ちだというのに。

額から汗が滲む。

人間の体はここまで熱くなれてしまうものだろうか?

孝次は両方のかかとでいくつものアルファベットやひらがなの軌跡を

シーツに描く。

いけない、孝次はそう思って、目を閉じた。

そして何か別の想像を、そう、楽しかったさっきの空想の続きをやろうじゃないか。

 

試合と一通りの取材が終わって、孝次は控え室に戻る。

しん、とした殺風景なリノリウムの床に、ビニール皮のソファーがあるだけの、

青白い蛍光灯に照らされた自室ぐらいの部屋。

本棚の代わりにあるのはグレーの無機質なロッカー群だけだ。

「おめでとう、孝次くん」

突然背後から投げかけられた、聞き慣れない女性の声に驚き、それから振り返る。

何故か予想できた通り、今まで雑誌で見ていたようなお姉さんが、写真とそのままの

身なりをして微笑を浮かべながら立っているではないか。

「こっこっ・・・・・・ここ、これは!?」

ドキリ、として孝次は質問する。

母親以外の異性に自分から声をかけることなどこれが初めてといっていいだろう。

「防衛おめでとう、チャンピオンくん!」

耳がトマトのように赤くなっているんだろうな、と孝次は思った。

「いえ、そ、そんな・・・・」

照れ笑いをしながら後頭部を掻いているところに、ぴったりと体を寄せてくる。

孝次の身長と体重では、かなり巻いてあるチャンピオンベルトは大きく、そして

重く感じられたが、

「お姉さん、さっきリングで一生懸命闘ってる孝次くん、可愛いと思っちゃった」

「えっ」

「だからね・・・・・」

何故か直立不動の姿勢になってしまったところで、孝次は控え室のベッドに

横になるように言われ、それに従う。

「こんなになるまで闘うなんて偉いわね」

「いや・・・・・・その、やっぱり、良くないことは良くないから・・・・・」

そう言いながら、丁寧に蒸したタオルで汗や鼻血を拭ってくれる気持ち良さに

素直に身を委ねる。

マッサージされるたびに純との熾烈なタイトルマッチで傷付いた体がみるみるうちに

修復されていく、それが何より心地よかった。

自分の何もかもを受け入れてくれるような、そんな感じ。

「お、おねぇさん・・・・・・」

相手が誰なのかなんて、もう今はどうでも良かった。

こんな気持ちになれたのは、もう何年ぶりだろう、『良い子』でなくても

優しく包み込んでくれる、この感覚は・・・・・・。

緊張で、曲げた膝がガクンガクンと感電したように痙攣し、声にならない声を

何度も上げる。

 

「ハアッ・・・・・・ハアッ・・・・・・・」

枕元に置いてあった目覚まし時計は、既に午後11時を回っていた。

3時間も経過していただなんて・・・・・・・・。

今も鮮明に、孝次の腕にも太ももにも、柔らかな弾力の記憶だけは残っている。

何をしたのかは自分でも全く分からなかった。

気が付くと、まるで実際に純と12ラウンド闘い抜いた後のような発汗量と倦怠感。

それからふっと、ひどい自己嫌悪と倦怠感に襲われ、孝次はもう一度風呂場に

駆け込み、今度はゴシゴシと念入りに石鹸で全身を磨いた。

何だか自分はものすごく汚れた存在に思えたのだ。

全身をドロドロと汚す邪念を全部洗い落とさないと、そうしないと自分は、自分は・・

・・。

こんな痩せっぽっちな体のどこにあんな夥しい量の邪念が渦巻いていたのだろう、

自分でも恥ずかしくなってくる。

風呂から上がるとすぐに、孝次はその雑誌を本棚の裏にしまいこんだ。

捨てる、というところまで思い切れない自分がとてもふがいなかった。

それから何度もシャドーボクシングに打ち込み、それから翌朝の新聞配達のことを

思い出し、それからゴミ箱が一杯になっているのに気がついてから、台所の大きな

ゴミ箱に移すと、ぐったりとしたまま、体の芯を抜かれたように布団に潜って目を閉

じた。

 

(6話に続く)

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