夏の日の思いで2

 

第6話   火花

試合の日当日、純も孝次もお互い顔も合わせぬまま学校を終えると、

言い合わせた通り、かつて力丸が指定した場所にロープを張った仮設リングに

二人は落ち合った。

 

放課後に純は緊張した面持ちでランドセルを背負って教室を出ようとして、力丸に

呼び止められた。

「今日の試合、忘れてんじゃねぇだろうな?」

その一言にドキッとする純。

実際のところ、昨夜は興奮して眠れなかったのだが、いざこうして直前になって

みると、思わずどこかへ逃げ出してしまいたい衝動にかられていたのだ。

できることなら、もう。

それがいけないことだとか、現実にはとても不可能だということが分かっていても、

そのまま無言で自宅まで逃げ帰って、玄関や部屋のカギを何重もかけてしまいたい、

とすら思っていた。

「落ち着けよ、勝てねぇ相手じゃねぇだろ?」

そうはいっても、純にとっては腕力を誰かと競おうなんていうこと自体、東京では

考えられないことだったのだ。

いつもいじめっ子にいいようにやられては、ヒイヒイ泣きながら帰宅していたのも、

ほんの数カ月前のこと、いや、本人にとっては、まるで昨日のことのようなのに。

あれから転校やこうした出会い、外遊びなどいろいろな体験をしたにも関わらず、

どうにもそれが今となっては現実のこととは思えなくすらなっていた。

もし孝次があんな、ヒョロヒョロの体格なのにメチャクチャ強かったらどうしよう?

そういえば、いつだったかテレビでやっていたけれど、タイの貧しい農村の子供で、

可哀想に自分より幼いぐらいの年齢でムエタイの選手としてジムに売り飛ばされた

子たちは、孝次とまではいかなくっても、あんなに細いのに同じ子供とは思えない

ぐらいに強かったじゃないか。

そもそも、前回力丸に勝ったのだって、相手のコンディションもあんまり良くなかっ

たみたいだし、そんな状態での勝利に何の意味も・・・・・・・・。

そんなことが脳裏で無限にループしているところに、

「どうした、何とか言えよぉ」

と、しびれを切らしたように力丸は、純の手を引いて廊下に引っ張り出す。

「いいか?お前は兄貴のトレーニング受けてきたじゃねぇか?」

「うん」

「俺思うんだけどさ、あれ、無駄だって思ってる?」

「え?」

言われてみればその通りで、基礎体力に自信はないけれど、とりあえず

一通りのこととまでは時間が短かすぎて言えないけれど、ただただ過酷だったのは

覚えている。

「いや、そうじゃないけど」

「だろう?なら心配いらねぇよ!つーかさ、お前あんなヤツ相手にするのに

トレーニング要るってこと自体、男としてどうかと思うぜ!」

男として、という部分で股間を思いきりギュッと鷲掴みにされ、慌てて

飛び逃げる純。

そのさまを見て、ゲラゲラ笑う力丸に

「もう!何するんだよぉ!!僕は今真剣にどうしようかと思ってるのに!」

「どうするもこうするもねぇだろ。今日の試合、絶対勝てよな!」

親指をグイッと立てて純に見せる力丸。

不器用だけど彼なりに励ましているつもりらしい。

「ん・・・・・・」

 

遅れること数分、孝次はきちんと順序どおりランドセルに教科書やノート、

それからロッカーに置きっぱなしにしていたピアニカや絵の具セット、

習字道具などを両手に持って、無言で帰路についた。

やはり、一旦は自宅に帰らないと寄り道になるからだ。

しかしこんなことになるだなんて、自分でも思わなかった。

ギャラリーは最小限。

あんまり増やしても、こんな尋常じゃないイベント、子供だけでやっている

だけでなく、自分が参加しているというのが明るみに出たとあっては、これまで周囲

に築いていた信用が失墜するからだ。

見ていろ、どっちが正しいか今日は徹底的に教えてやる。

そう思うと、習字セットの鞄の取っ手を握る拳の握力も一段と強くなる。

しかし、ふと脳裏に過るのは、昨夜の自分の稚拙な妄想だ。

よりにもよって、闘いの日を前にあんなことをしてしまうなんて。

それも数時間、無我夢中で耽ってしまっただなんて、自分もどうかしていると思った。

お陰で今朝の新聞配達も、最後はバテ気味になってしまった。

根性がたるんでいるからそうなったんだ、孝次は激しくそんなふがいない自分を

詰りながら、口を真一文字に結んで一層不機嫌になった。

そんなこと自分は望んでなんかちっともいない、異性に甘えたいだなんて、

あんな子供らしくないような不潔な願望を持つなんて、本当にどうかしている。

どんどん自分を責め続けるのにも行き詰まって、孝次は一目散に自宅の石段を

駆け登った。

迷いを振り切るようにして。

 

そして松林。

当然のことながら、まっ先に到着していた純と力丸兄弟。

「くあー、遅ぇなぁアイツ!」

もう待ち疲れたように鉄丸が声を荒げながらも、クラスの男子たち数人が

集まってきたので、ここまできて中止というわけにもいかず、しょうがないから

純を着替えさせることにした。

「じゃあ、こっち来い」

 

陰でいよいよ着替え。

シャツとズボンをランドセルと一緒に足下に脱ぎ捨てると、ブリーフを

脱ごうとして、ピタッと鉄丸の存在に気付いて、

「すいません、後ろ・・・・・・・向いててください」

「何がぁ?」

恥ずかしがる純のさまを見て、ケロッとした顔で

「あのなぁ?計量の時はボクサーってみんな裸でやんだぜぇ」

「ホントですかぁ〜?」

でも何も着替えまでそんな見なくてもいいじゃん、そう思いながらすっぽんぽんに

なると、ファウルカップを装着しようとして、

「あ!」

古かったせいか何なのか、紐が途中で切れている。

「どしたぁ?あ・・・・・・・・こりゃ虫かなぁ?」

これに限らず、今日の試合で使う用具は鉄丸が昔使っていたものだったというが、

これはまずいと鉄丸は思った。

「鉄丸さん、僕、いいです!」

「だけどコレないとやばいだろぉ」

「いいえ、とりあえず孝次も、ローブローなんて卑怯なマネはしないと思います!」

毅然とした表情で見上げる純は、もう闘う男の顔になっていた。

「純・・・・・・・・」

「はい」

「今のお前、マジカッコいいぞ!」

鉄丸は背中をパン、と叩く。

「え・・・・・・・・そんな・・・・・・・」

「フリチンでなければ完璧なんだけどなぁ」

「!!」

慌ててしゃがんでトランクスを探す純。

確かに自分は何を全裸で言い切っていたのだろう、客観的に見ればカッコいい

どころか相当間が抜けていると思った。

「っと」

「どうだぁ、サイズちゃんと合うかぁ?」

「あ、はい!」

ギュッ、と腰のゴムがキツく締め上げる。

サテン地のテカテカした光沢の質感が、テレビでよく見るような感じで

ゾクゾクするような感覚に襲われた。

「わぁ・・・・・・・・・・・」

「どうだ、いいだろこういうの?」

「はい」

表情がみるみる明るくなる純に、鉄丸も勝利を確信したようだった。

「うん、イイ顔してるぞ」

それから、鉄丸は純の体を一つ一つ確かめながら、

「でもなあ、お前、このまま鍛えとけばなかなかいいとこまでいくんだろうけど、

本当に何かスポーツやった方がいいと思うぞ?」

「え、そうですか?」

「おう!きっとな」

実際に、こうしてみると純もなかなかしなやかな筋肉がついてきたような気がする。

二の腕、腹筋、胸筋、背筋、そして太もも。

決して太くはないが、しかし・・・・・・・・・。

 

「待たせたな!」

孝次の声に横を振り向くと、普段着に着替えてもう臨戦体制になっていた。

「いい度胸だ」

それから、二人にギュッとバンテージ、グローブ、ヘッドギア、マウスピースが装着

されていく。

いよいよ試合の時が来ているのだ、そう思うと純は武者震いがしてきた。

そして勿論、孝次の方も・・・・・・・。

「うおおっ、すっげぇ!」

「何か本物のボクサーみてぇだ!」

「純、カッコいいぞぉ!」

観客として集まったクラスメートたちは口々に二人の勇姿を絶賛した。

照れと緊張でドキドキと自分の中で脈拍が上がっていくのが分かる。

見ていろみんな、今これから純をメッタメタにしてやるんだからな、

そんな目で周囲を睨み付ける孝次。

「よし、じゃあそろそろ試合開始だな!」

リング中央に立つ鉄丸は、白く眩しいワイシャツと、学生ズボンがまるで

本物のレフェリーのようにすら見えた。

砂浜だからやっぱり体力の消耗が激しい、そういうことも考えて闘わなければ

ならないことは、両者に告げられた。

「青コーナァー!!!挑戦者、猿渡孝次ィ!!」

通りのいい名調子で紹介されて、バッと孝次が両手を挙げる。

グローブの大きさとか、手を挙げたことで肋が浮き出るところとか、

孝次の痩せ方が際立って見える。

しかし、寝不足のせいか、病的な程顔がやつれていて、純も心無しか

ちょっとだけ恐怖心が解けた。

「赤アコォーナー!!!チャンピオン、矢島、純ッ!」

こっちはこっちで、やっと締まりかけた純の幼児体型が、勇ましい表情では

あるものの、ちょっとだけアンバランスだ。

じゃあルールを説明するぞ、と観客に分かるように一つ一つ説明していく鉄丸。

まず、1ラウンド2分であること、インターバルは3分、二人の体力を考慮して

3ラウンド制、KOで勝負がつかないときはみんなで判定というかなり

安全を考慮したものだった。

 

ゴング代わりのブリキのバケツをガン、と棒で叩いて試合開始。

と、同時に赤コーナーに飛び込んでくる孝次、早くも観客たちが立ち上がる。

一瞬ビクッ、と狼狽えるも、ヒラリと交わしてジャブ数発、しかしガードされて

回られる。

といっても、砂で足をかなり取られるから、リングのようにはいかないのだが。

何も考えずに突っ込んでくる辺り、相当頭に血が昇っているのだろう、純も

それは感じ取っていたが、しばらくは防御に回ってみる。

これは鉄丸のアドバイスでもあった。

心配しなくてもいい、と事前に何回も言われた通り、孝次のパンチは破壊力もなく

大したダメージはない。

「ハァッ・・・・ハァァァッ!!!」

ペースも考えずに連続攻撃をかけるから、孝次は酸欠気味になってくる。

「行け、純!」

力丸の指示が入って、純のカウンター!

「うあっ!」

あっけなく膝を崩す孝次に、オーッと歓声があがる。

「ダウン!」

鉄丸の声に、しまった、という顔をして立ち上がろうとする孝次、

このまま純からダウンが取れなければもう負けはこの時点で確定である。

「くそっ・・・・・・・・」

ニュートラルコーナーで純がこっちを見ているのが分かる。

どうして俺の方が劣勢なんだよ、そんな無茶苦茶があるもんか、頭は

そんな言葉で一杯になる。

立ち上がるも、ヨロヨロとロープにもたれかかる孝次に鉄丸、

「どうだ、もうやめるか?」

とだけ戦意の確認をした。

乱れた呼吸と、まだグニャグニャとした視覚に苦しみながらも、

無言で首を横に振る孝次。

「・・・・・・・・ファイト!」

ヘッドバアをしているのにランニングシャツは着ていない、というちょっと

変わった格好になるが、再び試合再開。

しかし、純の強さがじわじわと分かってきたのか、そこからは体力の温存に

走る孝次。

ゴングが鳴って、フラフラと自分たちのコーナーに戻る二人。

途端にわあっと他の同級生も集まって、闘っている感想をあれこれと

聞いてくる。

しかしそんなもの、ラウンド終了直後の興奮でうまく言葉にできるはずもない。

どうにかこうにか、

「ハアッ・・・・・んっと、痛かった」

などと感想なのかどうなんだか分からないことを口にするのがやっと。

呼吸が大分整ってきたところで、

「へへへ、どう?少しは強くなった?」

「すっげー低レベルなのな」

と、力丸は苦笑いしながら汗をタオルで拭いてやる。

「あ、ひどいなぁ」

「だってそうじゃねぇか、ボカスカやりあってばっかでさ、テクニックとか

全然ねぇし」

ぶすっと膨れる純だったが、

「ウ・ソ!」

力丸は鼻でちょっと笑いながら、

「ちょっとだけはサマになってたぜ、ただ、まーこの俺サマにはかなわねぇけどな!」

「うー!!」

しかし、闘う時間より休む時間が長いとはいえ、純はもとより孝次の体力の消耗が

とにかく激しかった。

悔しそうに激しく深呼吸をくり返す孝次、ケアは鉄丸が行う。

「どうだ、孝次。もう無理なことやめて、降参した方がいいんじやねぇか?」

「るっさい!お前らに、正義は必ず勝つって教えてやるんだ!」

やれやれ、という表情でトランクスを仰ぐ鉄丸。

当然、純がファウルカップをつけていないことから、孝次も装着しないままだったが、

「孝次ってさぁ」

「何だよ」

「やっぱり生えてないのな、まだ。この分だと純と互角、ってとこかな?」

「なっ!?」

真顔でぼそっとそんなことを言われて、慌ててトランクスを押さえる孝次。

「おっ、お前ドコ見てんだよおっ!!!」

「いや、何となく。うーん、顔とか体で想像ついてたけど、やっぱみんな中学からな

んだなぁ」

真面目な顔でそんなことを口にする鉄丸に、投げかける罵詈雑言も見つからない。

「俺は中2だったんだよなぁ・・・・・・」

「聞いてねぇよそんな話っ、この変態っ!」

「いちいちわめくな、体力その分消耗するぞ」

そう言いながらもテキパキと作業を終えていく鉄丸。

ちょっと前まであんなに自分の憎まれ口にムキになって怒っていたくせに。

やっぱりそういうところが高校生なのかな、と孝次は思った。

「いいか?無理だと思ったら降参すればいいから。これはアマチュアの

試合だし、お前らまだガキなんだからな、こんなことで大怪我とかしちゃ駄目だ」

「そんなことするもんかっ!」

素直にありがとう、が言えない。

思わずそんな口答えをしてしまう自分の頑なさが恥ずかしかった。

自分の中で何かが動いたような気がした。

だけど信念だけは曲げたくない。それだけは。

 

「うーい、じゃあそろそろ試合再開いっとこかー!」

腕時計の針がもう予定時間を30秒も過ぎていたのも構わずリング中央に

呼び寄せる鉄丸。

試合はまだ始まったばかりだ。

 

(7話に続く)

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