夏の日の思いで2

 

第8話  闘い終わって・・・・・・

「う、うーん・・・・・」

まだ真っ暗の室内。

ベランダからは、ゴーッというエアコンの室外機の音が響いている。

孝次は、まだ体に残る純に殴られた痛みに、思わず顔を歪めた。

純のスペアのパジャマの柔らかさに包まれてはいたが、昼間の試合の興奮が

覚めやらぬままだ。

 

「孝次クン」

聞き慣れた女性の声に、ピクンと子犬のように耳をそばだてる孝次。

体こそ痛くてすぐには起こせないものの、確かに気配だけは感じる。

「試合、頑張ったわね」

「・・・・・・・負けちゃった」

優しい笑顔で覗き込んでいるであろう『お姉さん』に孝次は顔を合わせ

られないでいた。

そして、試合結果を告げることですら、内心すこぶる嫌だったが、しかし黙って

毛布にくるまったままでは、無視したことにもなって失礼だからと、精一杯の

気力でそうとだけ答えた。

「知ってる」

その言葉を聞いて、孝次はこの前の感触を思い出した。

 

頑固な自分、幼い自分、周囲とあまりうまくやっていけない自分、そして勉強は

頑張っているのに要領が悪くてもう一つな自分、華奢な体格だからスポーツも

平均前後な自分。

そんな、みんなには隠しておきたいことも全部、受け入れてくれた、温もりの

ある優しさが、また自分を包んでくれていると感じた。

そして、試合結果については、敗者に対する慰めの言葉も、いや、試合内容に

ついても一切口にしないままだ。

 

気が付くと、孝次はまた、生まれたままの姿で布団に大の字になっていた。

半分、これは夢だと孝次は分かっていたが、そんな『お姉さん』の眼差しが

とてつもなく嬉しかった。

「そういうの、隠さなくていいから」

足下に正座し、孝次の傷付いた体を両手で癒しにかかる。

まずは痩せこけてる上に、純の容赦ない連続ジャブで黒く朽ちた頬。

そうっと唇が触れただけで、みるみるそのダメージが癒されるようだ。

「は、恥ずかしいよぉ、お姉さん・・・・・・」

「どうして?いいじゃない、夢だって分かってるんでしょう?」

黒どころか、かあああっと顔が真っ赤に染まってきて、他にもあちこちが

反応してしまっていることから、感情を見すかされるのが孝次にとっては

とても恥ずかしかった。

「そんなことより」

『お姉さん』の表情がちょっとだけ真面目っぽくなって、

「あんまり嘘ばっかついちゃ駄目だぞっ!」

「えっ・・・・・・俺そんなのついてないよおっ」

「ついてる。孝次クンはいつだって、真面目ないい子っていう役を演じてばっか。

ホントの自分はどこいっちゃうの、それじゃ」

『お姉さん』の指摘の意味がやっと分かる。

「ホントの孝次クンは、もっとみんなと楽しく遊びたいのに。冗談を言い合ったり、

たまには漫画やアニメも見たいのに。でも、お父さんやお母さんが駄目って

言ったらもう、やらないでしょ」

「だって、それが当たり前なんだもん!不良みたいなのは嫌だよ・・・・・」

悲しそうな表情で、どことなく困惑した孝次に

「そういう事じゃなくって。そんな、意地張って演技して、自分の気持ちと

全然違う孝次クンやって、いい恰好するために毎日を使って、そんな生き方、これからも

ずっと続けるの?」

孝次は否定も肯定もできないまま、口を真一文字に結んだまま、答えられずにいる。

「ずうっと一生そうしてやっていくの?死ぬまで?」

「・・・・・・・・・・・」

「前に言ったでしょ。孝次クン、もう答えは分かってるんだって。頭良いから」

それから、体脂肪だけでなく筋肉までが極端に少ない胸や腕、腹などに

『お姉さん』のてのひらがすうっと流れていく。

「はあっ、あああっ・・・・・・」

何だかとても興奮してしまい、呼吸が激しく乱れているが、孝次はこの時間が

ずっと続けばいいとすら思った。

「ほらぁ、暴れないの。昼間立てなくなるまで闘っててもうこれだもん」

さらっと負けたことにそうとだけコメントすると、それからまたマッサージを

くり返す。

「無理ばっかするからしんどくなるんじゃない」

それが何を指して言っているのかは分からなかった。

しかし、何故か孝次にはその意図だけはよく分かったつもりではあった。

「ふぅ・・・・・ンッ・・・・・・・は・・・・・ぁ・・・・・」

鼻だけの呼吸では足りず、口を大きく開けてハアハアと興奮しながら孝次は

大の字の姿勢を保つも、両手はしっかりギュッとシーツを掴んでいる。

「ほらあ、まだ意地張ってる。全身の力抜かないと駄目って言ってるでしょ?」

「おねえ・・・さんっ」

「なぁに?」

「俺っ・・・・・こんな気持ち、初めてです・・・・・・その、こんなに

優しく包み込んでくれて・・・・・・・人にそんなことして貰ったこと今まで・・・」

「それは孝次クンが拒否してただけだよ、きっと。意外と、気持ちを受け止めて

くれる人ってすぐ身近に一杯いると思うよ。それらそれは孝次クンも分かってるはず

だし」

『お姉さん』のてのひらがチクチクとした孝次の坊主頭を愛撫する。

「でっ、でも、おっ、おねぇ・・・・さんっ」

「なぁに?」

「駄目、ちょっと休憩してっ・・・・・!」

しかし、孝次の体はそのまま柔らかい暖かさに包まれてしまう。

「ああッ、アヒッ、ヒ・・・・・・ィッ!」

「我慢しないで、そのまま一気に開放していいの」

「ああっ、お、おねぇさぁぁんっ!」

ビィィィィン、と伸びる爪先。

そこでパッと目が開いた。

純のスペアのパジャマを着たまま、額は汗びっしょり。

「う・・・・・・んっ・・・・・」

目の前に純の寝顔があって、そこで初めて、今までしがみついていたのが純の体

だったらしいことに気付いた孝次は、慌てて離れようとしてそれからすぐさま

パンツのグッショリと濡れた違和感に気がついた。

こ、これはまさか・・・・・。

しかしこれは紛れもない現実、いくら頬をつねってもそれは変わらなかった。

『お漏らし』をしてしまったのをどう純に言い訳すればいいのか。

動揺する孝次に言い訳を考えるだけの時間は与えられることはなかった。

「ん・・・・・」

純はうっすらと眠そうに目を開く。

「ん・・・・・こぉじぃ・・・・何抱き付いてんだよぉ・・・・・」

「わっ、ここ、これはそのっ」

弁解しようとする孝次、しかし純は足の感触から事態を把握してしまう。

「あー!何やってるんだよぉ・・・・・・ふーん、そういうことかぁー」

口調からまだ純は完全に起ききってはいないのだろう、ニヤッと笑うと、

ぐっしょり濡れたパジャマを脱ぎ捨て、孝次のそれも脱がせてしまう。

和也でもそんなことしないぞ、とでもいいたげに、純は怯える孝次に

「我慢できなかったのぉ?そんなだらしない奴は、もっかいシゴいてやるぅー!」

と、昼間の続きになだれ込んだ。

逃げようとする孝次の手首を掴むと、獲物を見つけた子猫のような笑顔。

夜目でもはっきりとそれは見てとれる。

「うわっ、純っ、駄目、これ以上やりあったらホントに死ぬ!」

「うるさーい!お漏らしするよーな奴は死んじゃえー!」

部屋のドアノブを回そうとする孝次だが、ぐいっと中央に引っ張り込まれる。

「あわわわわわわわ・・・・・・・・」

「えっへへへへへ、覚悟しろ孝次ぃ!」

純の両手が孝次に伸びて、滑らかな純の体に手繰り寄せられる。

「ああっ!!」

暗闇の中で激しくぶつかりあう二つの幼い肢体。

昼間のことがあったせいか、機敏な動きではなく、組んずほぐれつ、相撲のような

シルエットのままの二人。

どことなくミルクのような匂いの純の皮膚が、ぴったりと孝次に吸い付いていく。

しかし、それからほどなくして、孝次の足はガクッ、ガクッと激しく

痙攣し、粘土細工のようにベッドに倒れこんだ。

その先の展開を知る者は二人のみだ。

 

翌朝。

布団の中で目覚めた二人は、もう着ているものが脱ぎ散らかされてすごい

ことになってしまっていたことに気付く。

「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

お互い、恥ずかしさから絶叫してしまう、それに気がついて何ごとかと母親が

慌てて、

「純ちゃん、孝次くんどうしたの!?」

と階段を駆け登ってくるも、

「なっ、何でもないっ、何でもないからっ!!」

と、鍵を閉めたままにして弁解ともつかない返事をした。

 

「おっ、お前っ!!」

「何やってるんだよ孝次っ、そんなかっこで・・・・」

それから脱いだパジャマの汚れ具合にまた赤面。

昨夜孝次に加えた狼藉の数々はどうやら全く記憶にないらしく、純は

小声で孝次を散々罵倒する。

「うるさい純っ、これは全部お前がやったことなんだぞっ」

「嘘だいそんなの、僕は試合の疲れで今までぐっすり寝てたもん!」

「そんなっ、お前俺にあんなひどいことしといてよくも・・・・・・!!」

半泣きでそう抗議する孝次はさておいて、とりあえず当座の問題として

こんなものが母親に見つかったら、正直、今後の家庭内での自分の基本的人権は

完全に否定されてしまうと確信した純は、すぐさま孝次に、自分の制服を貸して

やるからと言い、二人で着替えることにした。

「ど、どうすんだよそれっ」

「いいよ、これからこっそり、洗濯機に布団のシーツと一緒に放り込んで回せば

わかんなくなるから!」

制服に着替え終わると、純はそういった洗濯物を抱えてトコトコ階段を降りて、

台所の横の脱衣場の洗濯機に突っ込むと、洗剤を入れてそのまま洗濯開始スイッチを

押す。

これでほっと一安心、それから部屋に戻って、

「孝次、ご飯食べたらすぐに学校な!」

幸いもう授業は全部終わっているから、今日の用意も何もないので、

食事と身だしなみを整えたらすぐに登校となる。

しかし純はそれから、孝次の怪我が一夜でかなり回復してしまっていたのが、

ちょっとだけ気になってはいた。

 

登校してから、力丸たち悪ガキたちが待ち構えていたように孝次を囲んだ。

「よぉ〜、孝次、昨日はやられたい放題だったなぁ?」

「純にコテンパンじゃん」

そんな嘲笑混じりに浴びせられる罵詈雑言を制したのは、純本人だった。

「やめなよそんなこと言うのっ!」

えっ、と一瞬、純の意図が分からないままキョトンとしていた一同に、

「孝次だって・・・・・・・・・一生懸命やったんだからさ」

それに続いて力丸が割って入って、

「そうだぞお前ら!」

意外な発言を続ける力丸。

「お前ら考えてもみろよ、こんな体格違う孝次が、自分が負けるに決まってる相手に

勝負挑んだことがどういうことか分かるか?それで闘いぬいたじゃねぇか!」

「に、西野・・・・」

孝次が制止するのも聞かずに、

「俺ならとてもじゃないけどできねーな、そんなバカな事!もう、まるで痛い目に

遭うのが大好きみてぇじゃねぇかそれじゃ!!イカれてるとしか思えねぇ!!」

弁護しているんだかいじめてるんだか。

「しかもだ、KO負けだぞKO負け、相手は純だぞ、こーんな喧嘩のけの字も

知らないよーな、もっというと男か女かすらもわかんないよーな野郎に、

完敗!普通そんなことになったら、人間として生きていけないだろー」

・・・・・・とか言いつつお前負けたことあるじゃん、と内心ツッコむ純で

あったが、はっと孝次を見ると、もうこれ以上もないぐらいに精神的に打ち

ひしがれていた。

「それを孝次はおめおめとまた学校にこうして・・・・・」

「力丸、多分孝次自殺するから、それ以上言うと」

「え・・・・・・?」

ものすごく黒いオーラに包まれる孝次に気付き、力丸は失言を恥じた。

しかし、さすがにこうなると周囲もあんまりだと思ったのだろう、孝次に一人ずつ謝り、

そうこうしているうちに担任が教室に到着。

 

「はーい、みんなおはよう!1学期も明後日で終わりだけど、今日はそういうことで

みんなで夏休みのためのホームルームをしましょう!何か意見がある人はいるかしら?」

力丸は、ちらっと周囲を見回す。

純のガッツポーズ、孝次も無言で頷き、そしてクラスの男子達の期待の視線。

それから徐にすっと手を挙げて

「先生、俺、ラジオ体操は今年で廃止にすればいいと思います!」

おおーっ、と教室中がどよめく。

純も孝次も必死になって闘い抜いた、その結果が今ここに形になるのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・ハア?」

 

担任の口から、信じられないリアクションが。

 

「え?」

「いや、そこで、え?とか言われても困るんだけど」

「あ、いや、何が?」

いきなり雲行きが悪くなる教室。

フーッ、と大きくため息をつくと、呆れたように

「あの、だから、何が、とか言われても。そんな事いきなり言われてもそんな話、

通ると思ってんの西野君!」

担任の顔は真顔だ。

「そ、そりゃねーよ先生っ、いいかっ、このために純はっ・・・・・」

「いや、関係ないからそういうことは。それって話し合いで決められるとか

そういうレベルの話じゃないでしょ」

「なっ、何をこのアマがぁっ!!」

激昂した力丸が吠える!

「キャーッ!!!西野君やめてーっ!!」

教卓の向こうで繰り広げられるキャットファイトも、純と孝次は無表情のまま固まって

目になど入るはずもない。

「な、何じゃそりゃあ・・・・・・」

「命がけで闘っておいてその結論がコレかっっっ!!!」

普通に考えれば闘う前から分かりそうなものだが、そこはそれ小学生の浅はかさ。

ブラのホックを外され、泣きながらトイレに直行する担任、

「西野君っ、覚えてなさいよっ!!」

「るせぇ、それはこっちのセリフじゃ!!」

呆然とする純、

「り、力丸、夏休み・・・・・」

「知るかそんなこと!!今はあの女を殺るのが先決!」

廊下に駆け出す力丸、それを追い掛けるクラス一同。

 

ぽつんと教室に残された二人は、お互い顔を見合わせて、思わず爆笑した。

「ぷっ・・・・くくくっ、あっはははは!!!」

「何だよ、それ、あーっはははは!!」

もう、笑うしかない、というのが本当といったところだろう。

ひとしきり笑いあったあと、

「純、俺さ・・・・・何ていうか・・・・・」

「ん?」

孝次は恥ずかしそうに、

「意地、張り過ぎてたのかな」

「かもね。でもいいじゃんそんなの。それより、ホントに折れたんだ」

純にしてみたら、孝次は負けようがどうしようが、絶対にこれが正しいとか言って

聞かないものだと思っていたのだが、あっさり折れてしまうところが男らしいと感じた。

「無駄になっちゃったな」

「そうでもないんじゃない?」

「え?」

「だってさ、僕たち、こうして仲良く話せるようになったし」

にっこりと笑う純。

しかしそう面と向かって言われると、孝次は何と言っていいか言葉に詰まる。

それに純は返事を求めない。

「とりあえず、みんなと一緒に追い掛けない?」

「・・・・・・・・・・・・・・おお!」

純の背中を追い掛けながら、2学期は何となく、みんなとうまくやっていけるような

気がしていた。

 

そして放課後。

遅れて駆け付けた鉄丸の試合会場。

一同、リング上の力丸の勇姿に視線を集中させる。

ヘッドギアで良く分からない、ということもなく、ボクサーらしくない

ズングリとした体格で、一目でどっちが鉄丸か峻別できた。

力丸の横で、ちょこんと座っている孝次。

どうしてこんなところまでついて来る気になったのか、さっぱり分からないが。

何となく、闘いっぷりだけでも見ておきたかったのだ。

紫紺のトランクスとランニングシャツ。

白く染め抜かれた、英語表記の学校名がプリントされている。

丁度、体育館でやるバスケットの授業の時と同じ、リングシューズのキュッ、

キュッという音がずっと続く、しかし鉄丸は息が上がった相手校の生徒を

容赦なくリングのコーナーに追い込んでいく!!

顔を真っ赤にして、頭半分だけ背の高い少年が組み付いて、脇腹を何度も

殴りにかかったのが気に障ったのか、一気に畳み掛ける鉄丸!

ボコォォォッ!!!

相手の横っ面が大きく歪み、マウスピースがリングの外まで飛ぶ、と、そこで

すかさずレフェリーが割って入った。

ゴングが打ち鳴らされ、そこで試合終了。

K高の席が一斉に立ち上がって大声で鉄丸の勝利を讃える。

2R2分18秒、鉄丸の公式戦での初陣はかなり派手な結果となった。

ガクッ、と崩れ去った相手は、すかさず救急班に介抱されるものの、

意識がはっきりすると、何度も悔しそうにマットを拳で殴りつけた。

 

周囲との挨拶なんかを終えてから、ぶらっと現れた鉄丸、

「へへへへ、何だよみんなぁ、俺の勝負、最初から見てくれなかったのかよー?」

口調は不満だったが、しかし表情は明るい。

高校の仲間やコーチたちに弟たちのことを冷やかされ、ちょっと照れながらも

「でもサンキュな。俺たちこのあと、みんなでいろいろあるからさ!」

とだけ答えて控え室に戻った。

 

帰りの電車で、往復料金が勿体無かったなという話も一通り終わった頃、

「力丸・・・・・・」

!、と一同が驚く。

西野、という呼び方ではないのだ。

「な、何だよぉ」

「お前の兄貴、さっきすごくカッコ良かった・・・・・・」

気恥ずかしそうに上目遣いの孝次。

「そりゃそうだろ!」

ワンテンポ遅れて自慢げに返す。

「・・・・・・・・・・・ごめんな・・・・・・・・」

「・・・・・・・・いいよもう。な、駅に着いたら何か奢るわ」

力丸も、さすがに二人に何もないのもどうかと思ったのだろう、

しかしそこではっと孝次に目をやると、

「・・・・・・・ああ」

と快く応じた。

いつもクラスで大勢が周囲にいるのにどこか寂しかった、どこか足りない

気持ちの悪い満たされなさ。

自分と周囲を隔絶していた、透明だけど絶望的に堅かったその壁が、

どんどん氷解していくのを感じ取る。

電車に揺られながら、枕木のカタカタというリズムに身を任せながら。

それからハンバーガー一つでああだのこうだのとりとめもない雑談で小一時間

潰していたところに、

「おっ、やっぱしお前らかよ!」

と鉄丸。

「何やってんだよ、自転車でふっと見たら、まだ帰ってねーのかっ!一緒に帰ろうぜ!」

ぐいっと見せられた腕時計はもう19時をとっくに経過していた。

「やっべぇ!」

「ったく、俺が代わりに怒られてやっかな、今日は」

孝次に自分のいいところを目一杯見せてやろうという意図は力丸にはよくわかっていた。

普通ならこんなことは絶対に言わない。

 

「ただいまー!!」

わざと大きな声で帰宅を告げると、案の定奥からえらい剣幕の母が。

スパァァァァン、と引き戸が外れかけるんじゃないかという勢いで開くやいなや、

「もーう!!何やってんのアンタって子はぁっ!!!」

「いやぁ、試合でボロ勝ちしちゃっ・・・・・・」

パァン、と強烈な平手打ちに思わずバランスを崩してすっ転ぶ鉄丸。

「いってぇぇえええ!!!」

母の予想以上のリアクションに動揺する間もない。

鉄丸の母は、徐に横に細長い二つ折りのカードをスッと取り出し、読み上げる。

「普通科1年、西野鉄丸!数学A16点!英語グラマー28点、オーラル34点!

国語1現代文32点、古文7点、保健体育86点、柔道97点、日本史4点、美術55点!」

「そっ・・・・・・そっ・・・・それはぁぁぁっ!!!」

「・・・・・・・・・赤点3科目も取っておいて何がクラブぢゃっ!!」

さすがに自由奔放な教育方針の西野家でも、留年しかけの成績は許されないようだ。

「ぐああっ、どうしてそんなの持ってんだよ、先生が学期末にくれんじゃねぇの!?」

リング上での勇姿はどこへやら、オロオロと取り乱す鉄丸。

まだ状況が全く飲み込めていない鉄丸に

「馬鹿!!高校からは自宅に郵送なのよっ!!今年の夏休みは全部補習だそうよ。

さあ力丸、早く入ってご飯にしなさい!」

「ちょっと待てよ、俺も母ちゃん家に入れてくれよぉぉぉぉぉ!!!

ていうか、試合直後のボクサーにそんな仕打ちすんなぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

唖然と、どうすることもできないその状況を見守る二人であった・・・・・・・。

「やっぱ・・・・・・ちょっとかっこ悪いかも・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・うん」

それからめいめい、家路を急ぐ二人。

しかし、孝次の胸は、ほんの少しいつもより暖かかった。

それが純の体温なのか、鉄丸たちの気持ちなのか、そんなことはどうでも良かった。

ただ今は、自分はもう一人ではないということが、孝次には一番重要だったのだ。

自室に戻ると、箪笥の裏には例の雑誌。

孝次は何となくそれが捨てられず、そっと引き出しの奥にしまい込んだ。

その表情はちょっと後ろめたいけど、初めて親に秘密を持てたのが、

どことなく大人への一歩を踏み出せたような気がした。

          (完)

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