TETSU(後編)

 

「ワンッ!!」

妙に通りのいいレフェリーのゆっくりとしたカウント、ツーを数えられてから

やっと体を起こそうとする鉄丸だったが、まだ世界が揺れる感じだ。

「ううううっ…………」

足は曲がる感じだが、まだ肩を持ち上げる気力がない。

「無理すんなよ、デブ!!ネンネしてろよ!!」

「馬鹿言え、こんな数分で終わってみろ、金返せってんだ!!立て、立つんだ!!」

何人かは自分を応援してくれる観客もいるようだが、それは選手としての

自分をではないようだ。

それから息を大きく吸い込むと、グイッと上体を起こした。

「おおおっ、そうだっ、立て!!」

観客からすれば試合開始からたったの5分ぐらいか知れないが、リングで

闘う自分にはその1秒1秒が重たいのだ。

人の気も知らないで…………。

とはいえ、プロのボクサーも考えてみれば、観客に見せるショーとして

闘っているのだ、今の自分と何一つ変わっていない。

ボクシングとはそういうスポーツなんだ、そう悟った鉄丸は再びゆっくりと

立ち上がるのだった。

下半身が小刻みに震える、ちょうど、そこだけ見れば柔道部員に見える

太ももとふくらはぎ、そして足首が。

いかにも安定感がありそうな鉄丸の下半身がそうなのだから、ダメージは

観衆も、そして誰より大樹にとっても良く分かった。

カウント7で果敢にもファイティングポーズを回復させる鉄丸に、

「大丈夫か!?」

と問うレフェリー。

鉄丸はただ無言で頷くのみだ。

レフェリーは一息置いてから、

「……………ファイッ!!」

再び試合再開、半数程の観客はこれから鉄丸がどう、マットに崩れ落ちるのかを

期待しながら見守っていく。

と、鉄丸のストレートが偶然、大樹の胸にクリーンヒット!!

「うっ!?」

突如大樹の表情から余裕が消えた!!

ザワッ、と観客の動揺が走る。

『へへへへっ、どんなもんだ、俺のパンチは当たると効くゼェ…………』

バスンバスンバスン、と3連続、突き上げるようなボディーブロー!!

「あぐうっ!!」

ダウンこそしないものの、前のめりで両手で腹を押さえ、ロープを背負う大樹。

ボクサーとして相当腹筋を鍛えていたはずにも関わらずこの威力。

カン、とそこでゴングが鳴った。

 

のそのそとコーナーに戻る鉄丸。

ドサッとケツを椅子にしずめると、ぼーっと天井を眺めた。

「へへっ…………」

薄笑いを浮かべる鉄丸、セコンドが冷水タオルで体を拭いてやったり、

トランクスを扇いでやる。

「…………随分やるじゃねぇか」

「生憎、かませ犬で終わる気はないんでね」

やっと笑顔を見せる余裕が出てきた。

汚れきった観客達オトナの期待したビジョンを木っ端みじんにブチ壊して

やるぜ、そんな反抗期特有の心境か。

「いいぞ、試合展開は読めない方がお客サンも盛り上がるってもんだ」

「そこまで考えてやる余裕ねぇよ………」

苦笑する鉄丸、一方大樹の方はさっきのボディーブローが相当効いたらしく、

嘔吐する声すらした。

「へへへへ、ザマァみやがれってんだ。これが喧嘩でグローブしてなかったら、

完全に終わってたぜ…………」

やっと自尊心が満たされてきた鉄丸、いくら経験があろうと、ボクシングが

階級制な意味を噛み締めるんだな、とでも言わんばかりだ。

インターバルでセコンドに何かを耳打ちされる大樹、試合はまだ始まったばかりだ。

 

3R開始、2Rより上げる腰が軽い鉄丸、パンパンと軽快にグローブを叩きあわせる。

かなりの体力が奪われていることは大樹の発汗量や表情からも読み取れた。

試合の行方が分からなくなってきたことに観客達の鼓動も早くなっていく。

この試合はいつものような、大樹のKOショーじゃないんだ、そんな空気が

場内を満たしていく。

リングからちょっと離れたところでそれを見守る興行主たちもそれについて

あれこれと話し出した。

もっともそんなことまで、リング上の二人は知るよしもないが。

負けられない、そんな意識が大樹の頭の中でどんどん大きくなってしまう。

それが焦りなのは誰よりも理解できていたが、しかし…………。

力丸の黒い短髪を立てている大粒の汗がリングサイドにまで飛び散る、

逃げ場に窮した大樹は必死にクリンチを試みる。

パァン、と肉と肉とがぶつかる音がした。

汗で密着した二人の肌、強引に鉄丸の両腕を抱える格好の大樹。

「おっ、おい、鉄丸………」

大樹は太ももをぐいぐいと押し付けながら、耳もとで囁く。

「俺はマジファイトしたいって言ったよな」

「ぐ…………」

懐柔の余地はないと悟った大樹、

「汚ねぇぞ、ホールドだ!!」

「大樹、殴り合えよ!!」

観客席からのヤジも気にする余裕はない、が、レフェリーもそれを

無視する訳にはいかないと見て割って入る。

意図的にゆっくりと二人を引き離し、注意するのを鉄丸は感じた。

が、試合が長引く程こっちが有利なことにも気付かないのはラッキーですらある。

『どうしても大樹に勝たせたいってワケか、なるほどな』

「ファイッ!!」

大樹は既に逃げ腰、狼と呼ぶには余りに線が太すぎる鉄丸は、

容赦なく牙を突き立てる。

ドスッ!!

「うぇあっ!!」

ゾクリ、と鉄丸の耳が反応、続いてワンツー!!

「ごふっ!!」

得体の知れない快感、これはサディズムなのか?

そう思うと鉄丸は、既にガードだけで精一杯の大樹が殴打によって

変形していくさまがどんどん見たくなってしまう。

ロープを背負って怯える大樹。

「オラオラオラオラオラオラオラッッッッ!!!」

「大樹っ、足だっ、足使って逃げろ!!」

全力かけての猛ラッシュ、メッタ打ちに遂に耐えきれず、葦のような

大樹の膝がカクン、と折れた。

マットに落ちるマウスピース、前のめりにドサリと倒れ込む大樹。

「ダーウン!!」

オーッ、と会場が揺れた。

無敗の大樹が今、マットにうつぶせになっているという予想外の展開に、

観客達は言葉を失った。

が、カウント1の声を聞くや、それが待ち望んだ光景であることに気付いたように

ざわつき始める。

「うぐ…………ぐ………」

グローブで上体を支えながら鉄丸を上目遣いで悔しそうに睨み付ける大樹、太ももの

筋肉がパンプアップしていることで、力が入っているのは分かるが、立ち上がるには至らない。

反った背中の中心に、シュッとキレイな一本線が出来る。

汗を弾く左肩の肩甲骨の辺りが照明で白トビして見えた。

全身が痙攣している、トランクス越しから力の入った尻の筋肉も分かる。

鉄丸はただ、必死に息を整えながら無言でそれを見つめる。

カウント7、大樹は肘が着いた時点で立ち上がるのを諦めた。

「うあああっ」

レフェリーはそれでも尚カウントを冷淡に続ける。

まるで敗者にそれを強烈に自覚させたいように、立てないことを嘲笑するかのように。

そしていよいよカウントが9まで進み、

「10!!!」

通りのいい少年レフェリーの声、文字で表記しきれない歓喜の声が沸き起こる。

カンッ、カンカンッ!!!

お粗末な感じに数回ゴングが鳴った。

「勝者っ、挑戦者、西野鉄丸ッ!!」

レフェリーはそう宣告すると、鉄丸の右腕を上げた。

夜店の林檎飴でも舐めるかのような粘着質の視線が鉄丸の全身へ無数に絡み付く。

「ウオーッ、スゲーぞデブ!!」

「馬鹿野郎、金返せ!!!」

口々に観客が騒ぐ。

「オラッ、しっかりしろよ!!」

リングサイドからセコンドたち数人がタンカで搬出する。

これがボクシングで負けた人間のみじめさなのか。

いや、勝者である自分もこの視線に雁字搦め、観客の愛玩物に堕しているのだ。

大樹の原形をほぼ失った黒紫の顔、そしてグッタリとしたままの上半身に鉄丸は

言い知れない興奮を感じた。

「…………俺がコイツを倒したんだ…………」

そう考えただけで、腹の奥底からモヤモヤしたものがジワリと体の芯までその熱を広

げていく。

「これは一体…………」

観客達は一喜一憂しながら賭け金のやりとりをしていく。

 

「おめでとさん」

ガッ、とセコンドが頭を掴んで撫でた。

「全く、趣味の悪いコトしてるな、おっさん」

首からタオルを下げて苦笑する鉄丸。

全く、街にはこんなにタチの悪い大人が夜な夜な集まっていたとは。

「そう言うなよ、これファイトマネーだから」

強い照明、あまり質の良くない、ビニールのようなペラペラの紙封筒から

福沢諭吉の顔が透けて見えた。

「ういっす」

鉄丸はそれ以上は何も言わず、リングを降りた。

控え室の通路の両脇には観客たちの賞賛の声に混じって、シャワーのあとに

という誘いもあったが、鉄丸はそれには答えないままだった。

意識の戻った大樹が客数人に何か言われて泣き叫んでいる。

ニヤニヤと弛んだ男たちの表情の理由は何となく分かった。

 

あちこち体は痛んだが、自転車を漕ぎながら鉄丸は、自分の中の獣性を

何度も再確認していた。

ぬるい風がまた吹き始めた。

 

「さぁて、と」

帰宅した鉄丸は、ガラガラと玄関の引き戸を開けようとして、はじめて

施錠されているのに気付いた。

………………やばい!!

左手首のG-Shockは既に22時に差し掛かろうとしていた。

納屋を兼ねた養鶏小屋の鶏たちもすっかり眠ってしまい、座敷の見える

縁側は雨戸まで締められている。

「……………」

背中に暑さとは別の冷たい汗が流れ始めた。

「母ちゃんゴメン、開けてくれよぉ!!!」

ガンガンとドアを叩く鉄丸、庭先のトマトや茄子が夜露で濡れ始めていた。

「母ちゃん俺が悪かったよう!!!」

雨戸の隙間から漏れる白い明かりとテレビの音を頼りに、鉄丸は

大声で夜遊びを詫びるのだった。

 

(終わり)

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