明日に向かって   試合前





とある団体が後楽園ホールでキックのイベントを行っていた。


人もまばらな会場で、一番リングに近い席に座っている黒人に、他の観客達が関心を寄せている。

「おい、アイツって確か、何かの試合に出ていなかったか?」

「K-1?」

「まさか?それにしちゃ体が小さ過ぎるだろう」


「ペリーウベダをKOした奴だっけ?」

「名前は確か・・・思い出せ無いなぁ」

反応を見る限り、特別に印象には残っていない選手だった様であるが、それなりの結果を出して来た選手だという事が分かる。


「お久し振りですね、ヒポリット会長」

突然親しげに話し掛けて来た日本人に少し驚いた表情を見せる黒人であったが、その直後に彼は笑顔になり、自分の方から手を差し出して握手を求めていた。

「久しぶりだな、泰泳」

金泰泳とイワンヒポリット、この2人は1995年のK-3トーナメントの決勝戦で激突しているのである。

高い技術のぶつかり合いとなった試合の結果はヒポリットの判定勝ちであるが、その後のヒポリットの活躍は余り芳しく無かった。

それとは対照的に泰泳は日本人で初めてのWMTC世界王者となり、引退試合ではヘビー級のスタンザ・マンを判定で破っている。

懐かしい友との再会を喜ぶヒポリット。

「あの頃と比べると、君も随分と年をとったな」

「アハハッ、それはお互い様ですよ」

「確かにそうだな、全力で戦えば誰にでも勝てる気がしていた頃が懐かしいよ」

「そうですね」

「なぁ泰泳、引退してからは、もう試合をやりたいとは思った事は1度も無いのか?」

「ええ、時々スパーリングの相手はしていますが、本業は格闘技とは縁の無い世界です」

「そうか・・・まぁ、その方が格好良いかもしれないな」

「はい、自分が納得出来るだけの事はやりましたから、この世界にはもう未練は有りませんよ」

「本当か?」

「会長はどうなんですか?」

まぁな、私はもう年齢的にもとっくに限界を超えているが、オファーが有れば試合には出たいとは思う」

「相変わらず元気な人ですね」

「ラモン・デッカーみたいに延々と引退試合をしてやろうか?」

「あの人は余力を残し過ぎた上に引退する決意が固まる前に引退を表明していましたから、それは仕方が無いですよ」

「ハハハッ、私の場合は余力は残っていないが気力は残っているよ」

「気力ですか、それだけでもヒポリット会長なら出来るんじゃないですか?」

「ハハハッ、お世辞丸分かりだが、全く有り難い事を言ってくれるじゃないか、ところで、一体何の用で私をここに呼んだんだ?まさか試合を観戦する為だけでは無いだろう?」

「う〜ん?簡単に言えばそうなんですが、ちょっと気になる選手達がいましてね、是非ヒポリット会長にも見てもらいたくて、思わず呼んでしまいました」

「おいおい、わざわざオランダから来たんだぞ、たったそれだけの理由なのか?」

「はい、そうです」

「そうはっきりと言われるとなぁ・・・まぁ良いか、泰泳が気になる程の選手だからな、どんなものか楽しみにしてるぞ」

「きっとヒポリット会長も納得すると思いますよ、彼女達には」

「そうか、んっ?今もしかして彼女って言わなかったか?」

その頃選手の控え室では、今回初めてキックの試合をする事になった星崎智子と、12戦10勝1敗1分現WKA世界ライト級王者の時平優が、それぞれの控え室でウォーミングアップをしていた。

「おいどうした星崎?体が震えているじゃないか」

「べっ、別に何でもありません・・・」

自分の試合が近づくにつれて、あからさまに緊張の色を見せる星崎。

グローブ空手の大会で優勝した経験を持つ星崎だが、全くプロになろうとは思わなかった為に高校を卒業と同時に、普通のOLとなり3年間民間企業で働いて来た。

しかし、会社での対人関係の悩みから退社、それから再び道場に通う様になり、とある団体のキックのイベント大会に出る事になってしまったのである。

急なオファーの上に、まだアマチュアである自分がプロのリングに上がる事を最初はどうしようかと悩んだ星崎だが、相手が世界王者という事を知って、2つ返事で了解してしまった。

「良いか星崎!絶対に逃げるんじゃ無いぞ!常に前に前に出るんだ、ガードも前に出ながらしろ!これは勝ち負けが問題じゃ無いんだ!どれだけ良い試合が出来るかが問題なんだ!分かったな!」

「はい・・・」

「「はい」じゃないだろう!返事は忍押だ!」

「おっ・・・忍押」

正直言って、打ち合えばグローブ技術に長けた時平に勝てる気は全くしない。

だからと言って、技術で勝負しても全く勝てる気にもならないのである。

5分程してトレーナーが控え室から出て行ってから、床に座り込んで考え込む星崎。

やばいなぁ・・・こんなんじゃ噛ませ犬になっちゃうじゃないか・・・。

はっきり言って、その為に呼ばれて来た様なものなのだが、そんな事は露程にも思っていない。

勝てる気はしないのだが、負ける事が大嫌いな星崎。

「世界チャンピオンと試合出来るなんて嬉しいと思ってたけど・・・何だかなぁ・・・」

キックの試合初参戦の選手が世界王者に負けても何も恥ずかしくは無い。

しかし、勝負は勝負、負ける分けいは行か無いし、この試合で勝つ事が出来れば、自分の新しい一歩を良い感じに踏み出せる気になれるかもしれない。

「嫌だな・・・こんな試合なんてやりたく無いよ・・・」

思わず気持ちが口に出てしまう星崎。

「試合をするのが嫌なのかい?それはいけないなぁ」

「あっ!?すいません!」

トレーナーに聞かれたのかと思い咄嗟に謝ってしまう星崎。

「謝る事なんて無いよ、それよりも大丈夫かい?」

「えっ!?」

なんと控え室のドアの隙間から覗いているのは、星崎がTVで見た事の有る豪州のキックボクサー、グルカン・オスカンだったのである。

「お邪魔して良いかな?」

「はっ、はい!」

「それじゃ失礼させてもらうよ」

「忍押!おはようございます!」

いくらキックの試合とは言っても、いきなりこんな大物に会えるなどとは思っていなかった星崎。


「今日の調子はどうだい?勝てそうかな?」

「はい・・・その・・・何と言うか・・・」

どう返事をしたら良いのか考える星崎。

そんな事はおかまい無しに、親しげに話し掛けて来るオスカン。

「おお、君は空手家なのかい?」

入場する時には普段自分が試合で着ている空手着を着て行こうと思い、控え室のハンガーに掛けて置いたのである。

「はい」

「やっぱり空手家は立派だね、君は打ち合えば確実に負ける事を承知で打ち合いを挑むんだろ?」

「聞いていたんですか?」

「そう、悪趣味な事は承知でね」

「・・・」

「やだなぁ、黙ら無いでくれよ」

「やっぱり駄目なんでしょうか?」

「どうしてだい?」

「だって、相手は世界王者ですよ」

「タイトルマッチかい?」

「ノンタイトル戦ですよ、今回が初めてのキックの試合ですから」

「いきなりか・・・でも考え方を変えれば、この試合はラッキーだったかもしれないよ、一気に自分の名前を売るチャンスになる」

「私もそう思ってるんです、だけど・・・」

「大丈夫、相手も同じ人間じゃないか」

「・・・」

うつむく星崎

「あっ?もしかして、人事だと思って、いい加減な事を言ってるとか思ってないかい?」

「違います!」

星崎が顔を上げた一瞬、オスカンには星崎の顔がまるで別人の様に目ツキが鋭く見えた。

「いっ!?それは・・・すまない」

不覚にも、星崎の目を見てドキッとしてしまったオスカン。

ほんの一瞬だが、星崎の目に、とてつも無い闘志を感じてしまったのである。

「うん・・・なかなか面白い子じゃないか、好きなんだよねぇ、君みたいな子」

「こっ、困るなぁもう!変な冗談を言わ無いで下さいよ!」

「何を思っているのかは知ら無いが、どうやら君は想像力が豊からしいね」

「そんな事よりも!勝てると思いますか!?何か良い作戦は無いんですか!?」

「おお、アグレッジブに話し掛けてもらえるのは嬉しいね、勿論沢山有るよ、でも今から練習しても意味が無いんだよ、たった数分で僕が言った事を全てマスター出来るかい?」

「はぁ・・・そうですよね、やっぱり」


「まっ、怖がらずにやる事だよ、今はただ自分が勝つ事だけを信じていれば良いのさ」


続く・・・かな?